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JR岐阜駅より北へ歩くと、岐阜の飲み屋街・玉宮の中に「たこ焼き居酒屋ぐっぴぃ」はある。
多くのファンを惹き付ける魅力と、コロナを生き抜く原動力を聞いてみた。
- 生い立ち・店名の由来
- 就職と起業
- 独立と失敗
- 大事にしていること
- これから
①生い立ち・店名の由来
たこ焼き居酒屋ぐっぴぃのオーナー米田健次(よねだ けんじ)さん。
現在、夜は「たこ焼き居酒屋ぐっぴぃ」「AQUA DINING peta ペタ」と合計2店舗を運営しながら、昼はお弁当の委託事業がありがたいほど忙しいと話してくれた。メインの料理であるたこ焼きは、関西風のふわトロにこだわる。いろんな味が楽しめるバリエーションの豊富さも人気の理由の一つだ。
「生まれは大阪、育ちは愛知、今は岐阜が大好きです。」
米田さんのご両親は、お母様はバリバリ働く女性。お父様は全国の割烹料理店で活躍していた。母親が作る料理も好きだが、幼心に残っているのは、父の手料理だという。
小さい時から、自然と触れ合うことが多かった。自然好きが高じて、大学時代にはキャンプのボランティア団体に所属したキャンプカウンセラーという米田さんが、のめり込んだ団体は学生が中心となり運営していた。参加人数はなんと毎年100名を超えるというから驚きだ。当時から運営を任されていた米田さんは「頑張ったら何とかなる」という組織力をここから学んだという。そして「人が集えば目標は達成できる」という教訓が今も大事にしている事柄だと話してくれた。
当時、キャンプで呼ばれていた愛称(ニックネーム)が今の店名の由来となる。
先輩「米田では面白みがない。何か趣味はないのか?」
米田「熱帯魚飼っています!」
先輩「・・・じゃあ、ぐっぴぃな!」
というひょんなことから、米田=ぐっぴぃのニックネームは定着し始めた。実は「ぐっぴぃ」という店名は米田さんの愛称が由来なのである。小さな魚たち≒仲間が集えば、それぞれの個性が活きて大きな力を生み出すというボランティア団体での学びもそこに込められている。
②就職と起業
大学時代のアルバイトは今の仕事に繋がる「たこ焼き屋」である。「生まれは大阪なんだから、たこ焼きくらい焼けないと!」学生時代はとにかくアルバイトにも打ち込んだ。
その後、大学を卒業してサラリーマンとなり、建築資材の会社で営業マンとなった。営業では攻めのスタイル。人懐っこいユーモラスな性格も相まって営業に自信があった米田さんは、4年連続営業成績1位、年間3億5000万円を売り上げるスーパー営業マンになったそうだ。
原動力は「学生時代のアルバイトは手取り17万、社会人になると初任給で20万ももらえました。こんなにもらえるのってモチベーションが上がりますよね。そして、良き仲間とライバル、そして上司も恵まれました。何より負けたくなかったですね。どうせやるなら頑張って結果だそう!って思った。」
しかし、同時に5年後、10年後の自分のビジョンが見えなかった。起業するきっかけとなったのは当時、営業でお客様を訪問する中で様々なアドバイスを受けたのが、今でも鮮明に焼きついている。
当時、友人と岐阜の飲み屋街・玉宮に行った。活気溢れる飲み屋街で、ふらっと入った店でのサービスと接客の対応が手厚かったことが起業へのきっかけとなった。
「飲食店は目の前の人を見て、自分の裁量でお客様に喜んでいただける。」
社会人で営業マンとして成績は良いものの、飲食店で触れ合う人の輝く姿と自分とを重ねた時に、自分の理想とのギャップを感じた。
冗談で「お店が出せたら良いな」そんな想いを話していた。結果、4年の社会人経験を経て26歳の時、夢を諦め切れず、初の転職・飲食店チェーン店へ独立のため修行の道へ進むこととなる。
③独立と失敗
人生初の転職は、現在も全国展開をする大手居酒屋チェーンであった。
まず入社直後、サービスと内容の”適当さ”に驚いたと話す。父親が板前だったこともあり、料理に関してこだわり厳格なイメージがあった。しかし、チェーン店はとにかくマニュアル通りに”誰でも作れる”ことが最適なオペレーション。今までの知識と、チェーン店とのギャップに唖然とした。
「それでも当時負けん気の強さもあって、結果にはこだわった。」
27歳で社員となり、28歳で店長となり、全国の二位の成績まで上り詰める。その要因は、負けん気の強さ、そして持ち前の愛嬌と、ファンを作ることだった。居酒屋チェーンでは「料理ではなく、人との関わり・材料・管理を学ぶことができた」と話す。いよいよ独立へ向けて動き出すこととなる。
まず最初に四苦八苦したのは、店舗選びであった。理想の立地はもう既に取られている。資金もできる限り抑えたい。気に入った店舗があれば何度も通って、オーナーとの交渉の日々であった。
ようやく口説き落とした2013年4月2日、30歳で念願の一国一城の主となり「たこ焼き居酒屋ぐっぴぃ」をオープンさせる。オープン時は、自分・父・母・彼女(今の奥様)との、4人で始まった。父親も隠居していたが、手伝いに来てくれた。私はタコ焼きを焼いて接客もする、板前だった父親には、調理場を任せた。母と彼女はホールの担当だ。これが後々大きな問題を生むこととなる。
父親は「職人気質」で料理と食材へのこだわりが強かった。大衆居酒屋であろうと、お金の計算なんてしない。全然採算が取れない。気前もいいもんだから、経営なんて考えずサービスも惜しみ無くする。
オープンから経営のこと、料理のことで日々ぶつかりながら、とうとう3ヶ月目にしてお互いの不満が爆発する。その結果、父親は店から離脱、料理もぐっぴぃもゼロから再考することとなる。
自分が経験してきた「たこ焼き」と「居酒屋メニュー」は作れるものの、今まで父親が作っていた料理には何も関与してこなかった。いなくなって初めて分かる事ばかりだった。
・出汁はどうやってつくるんだ。
・新鮮な魚はどうやって目利きするんだ。
・素材はどこから仕入れているんだ。
初めてこの時父親への「感謝」の気持ちが生まれた。同時に、何とかしなければと奮起した。営業マン時代の負けん気と、培ってきた自信がここで米田さんを突き動かした。
メニューを再考しなければならない・・・
料理も自分で作らないといけない・・・
チェーン店で学んだことを改めて振り返り、試行錯誤の日々が始まる。お客様がくるにはどうしたらいいんだ。喜んでもらえるにはどうしたらいいんだ。
そんな時、米田さんがふと思ったのは飲食店を目指すきっかけとなった、ふらっと立ち寄ったお店の思い出だった。改めて「接客の基本、お客様を大事にしよう」と思ったのだった。
あの日、気さくに話しかけてくれた店員さん、笑顔にしてくれた料理、アットホームな雰囲気。自分が本当に作りたいものに改めて気づいた瞬間だった。
目の前の人にサービスをする、喜んでもらうために様々な事へ挑戦した。美味しい料理は勿論大事だが、それ以上に自分が貫きたい”信念”がお店に宿った。ここから、ぐっぴぃは再出発することとなる。
④大事にしていること
ただ、現実はそう甘くはない、簡単に売上は上がらない。想いとは裏腹に売上が伸びない日々が続く。米田さんは腹を括った。「・・・もう閉めるしかない」そう覚悟していた時、奇跡が起きた。
試行錯誤したサービスが身を結び、お客様がきたのだ。
お客様「この前サービスしてくれてありがとうね〜!友達連れてきたよ!」
お客様「おいしかったからまたきたよ!」
米田さんの想いが身を結んだ。
口コミがどんどん広がっていった。
自分の理想のお店に近づいた。
その時一番大事にしていたことは「凡事徹底」だという。「料理は、”温かいものは、温かいうちに。冷たいものは、冷たいうち”に。接客は”お客様を大事にする”。まずは全ての基本を、改めて徹底した。」と語る。
⑤これから
最後に将来のビジョンを聞いてみた。
「最後にはファミリーを作りたい。リピーターが、常連になって、最後にはファミリーになる。アットホームを超えて、プライベートでも付き合っている関係を作ることが人生の価値だと思ってます。」
アットホームな大衆居酒屋で、”ふらっと来てもらえる”ことにこだわり、ぐっぴぃが第二の家になれば嬉しいと話す米田さん。お客様も働く人も、全員が居心地の良い空間を目指している。
「そして、全国に”ぐっぴぃのたこ焼き粉”を展開して、大阪に逆輸入したい!」と熱く語ってくれた。
“温かいものは、温かいうちに。”家で作ればそのまま美味しいぐっぴぃのたこ焼きが楽しめる。そして、家が団欒となり、家族の時間も大切にできると語ってくれた。
その理は、米田さんの人生の中で、大事にしている哲学であり原点である。
ぐっぴぃには「仲間が集えばそれぞれの個性が活きて大きな力を生み出す」という想いが込もっている。料理にも、お店の雰囲気にも、その感性が根幹にあり、その想いは繋がりこれからも大きな笑顔の輪が広がっていく。これからも米田さんの挑戦に目が離せない。